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さよなら
ウィリアム・ピーター・ブラッティー
2017年1月12日「エクソシスト」原作者であるウィリアム・ピーター・ブラッティ氏がご逝去された。
今年の春頃から彼について、「ラジオドラマ甲子園」を通して語りたいと思っていたが、
なかなか機会に恵まれずに今日に至ってしまっていた。
恐らく、日本人でブラッティ氏とこれだけ長きに渡って、交流を続けていたのは僕だけではないかという自負もあり、
僭越ながら、今回の追悼放送をやらせていただいた次第である。
彼との出会い……というよりは、映画「エクソシスト」との出会いになるのは、僕が10歳の時であった。
1974年に日本で公開となったその年、日本中の映画館は空前稀にみる大盛況であった。
余談だが、映画「エクソシスト」の日本での封切の日である1974年7月13日は、
現在「オカルトの日(オカルト記念日)」として知られているほどだ。
8月の夏休みに僕が叔父に連れられて渋谷東急の映画館に行った時などは、
現在の渋谷ヒカリエに当たる場所から、行列が宮益坂まで続いていたほどであった。
結局この日は、その列の最後尾に並んでも、観られる確約がないという有様だったので、
仕方なく帰らざるを得なかったのである。
その日、家に帰った僕は、映画を観られないやるせなさから、
アメリカでは1971年に刊行され、日本で1973年に翻訳されて発売されていた小説「エクソシスト」を手に取ったのである。
これが恐らく初めてのウィリアム・ピーター・ブラッティ氏との出会いだった。
――その小説は、イラクの沈まぬ太陽から始まった。
小学校四年生の僕にとっては、ほとんどわからない漢字と言葉で形成されていた小説のはずなのに、
何故か風の匂いだとか、その土地や街にまつわる空気を感じた。
ワシントンDCの隣にある高級住宅街ジョージタウンの町に悪魔がやって来たという描写が、
とんでもなく恐ろしかったと記憶している。
その小説を読んだことで、映画を観られなかったことも相俟って、
自分の頭の中で幻想や空想が頭の中でいっぱいに回っていた。そんな中で1974年は暮れていったのである。
そして、映画の公開が間もなく終わる1975年の初頭、
今度は父が、「おい、『エクソシスト』行くか?」と声を掛けてくれた。
その時、僕は身震いしたと同時に、足が止まってしまった。
「ようやく観られる」という興奮と、「観たらどうなってしまうんだろう」という怖さが相混じってしまったのだ。
それは今でもその光景が夢に出るくらい強烈な記憶である。
劇場では憧れのあのポスターが貼られていた。
それはたった一枚の写真で「エクソシスト」の世界を象徴したもので、
小説を何度も読み返していた僕は、「ああ、メリン神父は命を捨てるためにこの家に来たんだ」と、
このポスター一枚で悟ってしまったくらいだ。
そして、特徴的な悪魔に取り付かれた少女リーガンの目のアップのポスターも……
僕の心は、まさに興奮のるつぼだった。
父には今も感謝しているが、やはり子供の心をがっかりさせないということなのだろうか、
映画館のど真ん中の指定席を取っていてくれたのである。
この頃にはすっかり混雑も落ち着いており、劇場には僕ら含めて8人しかいなかったのだが、
指定席は二人きりだったので、実質二人だけで映画を観ていたような、贅沢な時間だった。
映画「エクソシスト」のオープニングはまさしく北イラクの真っ赤に燃える太陽から始まるのだが、
これは全く小説世界と同じだった。
僕はあっという間にその映像の虜になり、映画の世界に没頭していった。
これを撮っていたのは名匠ウィリアム・フリードキン監督であった。
彼は、この作品の前に30代前半にして、「フレンチ・コネクション」で、アカデミー賞の作品賞と監督賞を受賞していた。
その後、脂の乗りきっているところで、この映画「エクソシスト」を撮る訳だが、さすがは鬼才であった。
「全てがリアリティに感じていなければ、撮っていてもしょうがない」という気迫が
作品の端々からひしひしと感じられて、吐きそうになってしまった。
余談だが、皆さんは十歳の少年がこの映画を観た時に、これまでこういう作品に触れたことが無くて、気持ち悪くなったり、
夜眠れなくなったり、トイレに行けなくなったりしたのだろうと思われるのかもしれないが、まさにその通りである。
しかし、うちの父は変わり者で、その後食事をして帰ろうと言って、鰻屋に入ったのだ。
今でも覚えているが、その鰻は悪魔が乗り移ったリーガンの舌にしか見えなかった……。
また、この映画「エクソシスト」は音楽業界にも多大な影響を与えていた。
映画「エクソシスト」の音楽はいうと、
当初ブルース・リー主演の「燃えよドラゴン」で音楽を担当した、ラロ・シフリンに依頼する形で話が進んでいた。
恐らくはオーケストラで奏でる美しい音楽であったことは想像に難くないが、
ウィリアム・フリードキン監督は、録音されたテープを、「こんなものは『エクソシスト』の曲にはならない」と
駐車場に投げ捨てて、ラロ・シフリンに家族の前で赤っ恥をかかせてしまったという、そんなエピソードも残っている。
恐らくは、この映画に曲を書ける作曲家はいないと思われていた矢先に、白羽の矢が立ったのが、
マイク・オールドフィールドというアーティストの「チューブラー・ベルズ」というアルバムであった。
当時シンセサイザーを多重録音させて収録する手法を、マイク・オールドフィールドが世界で初めて成功させて、
「チューブラー・ベルズ」を発表したのだが、あの有名なテーマ曲は「エクソシスト」のために書かれたわけではないのだ。
なお、実際に作中で使われているのは冒頭の3〜4分であり、
原曲は魂が世界を旅する様子をシンセサイザーで描いた音楽であるため、
曲調が東洋から中近東、ヨーロッパの方へ向けて変わっている。
あの一度聴いたら忘れない旋律は、まさにその冒頭部分を上手く使っているものなのである。
映画「エクソシスト」がヒットすると同時にこの音楽もまたカリスマ性を呼んだ。
この映画「エクソシスト」を皮切りに全世界でオカルト映画ブームになり、
「666」の数字でも有名な名作「オーメン」などが公開された。
それと同時にパニック映画ブームでもあり、私の記憶では、
スティーブン・スピルバーグ監督の「ジョーズ」や、スティーブ・マックイーンやポール・ニューマンを始め、
当時では信じられない豪華キャストが共演した「タワーリング・インフェルノ」などが、強く印象に残っている。
なお日本では、この「タワーリング・インフェルノ」を上映するとその翌年、
「なりたい職業ランキング」で消防士の順位が急上昇したほどであった。
続いて、アクション映画も日本に入ってくるのだが、この当時はブルース・リーが圧倒的なヒーローであった。
1970年代は、オカルト映画や音楽、さらにパニック映画など、
ハリウッドの大スターたちが、精魂込めて、チャレンジしながら創っていった時代であり、
ベトナム戦争の後、リアリズムの描き方が徐々に変わっていった時代でもあった。
この時期は、小学生から、中学、高校と過ごしてきた僕が、エンターテインメントの世界に入って行くに至る、
大きな影響を受けた時代と言っても過言ではない。
そんな中で一番影響を受けたものが、「エクソシスト」であったから、
やはり、本当に沢山の影響をくれた、原作者ウィリアム・ピーター・ブラッティ氏にはとても感謝している。
さて、念願かなって映画「エクソシスト」を観ることが出来た僕には、一つのインスピレーションが降りてきた。
それはこの「エクソシスト」のリーガンの部屋が、目の前で繰り広げられたら、
どれだけ恐ろしいことだろうという発想だった。
それほどまでに、映画「エクソシスト」は強烈だった。
何回も本を読んで鑑賞に至った僕の心に、たった一回のチャンスだけで鮮明に焼き付け、
意識を越えて、僕に無意識を与えていったのだろう。
小学校五年生になって、担任の先生が、クラスで創作劇をやってみるかといったことを言った時には、先生に向かって、
「あのー、エクソシストを今やりたいんですけど、先生、これ、悪魔の乗り移る女性がいないとできないんですよ」と熱弁して、
あっさりと「やらなくていい」と言われてしまった。
子供ながらに「やらなくていい」って言われたものだから、余計にやりたくなってしまったことは言うまでもない。
それから時は流れ、二十一、二歳になって、生業として舞台をやり出した時にハッとしたのだが、
自分がやりたいのはこの「エクソシスト」を舞台にすることだと思ったのだ。
その原動力を与えてくれたのが、僕が演劇を始めた無名塾というところであった。
無名塾は年間にかなりの日数、合宿を行うのだが、その合宿所で、無名塾の塾生同士で
「自分の好きな映画を挙げてみよう」という話になった時に、「エクソシスト」を挙げたのは僕だけだった。
さらには、皆に「くだらない」だの「下品だ」だの、散々に馬鹿にされてしまったのである。
でも、僕はそこまで言われていても「好きなものは好きだ」と言い通した。
僕はこれが絶対に舞台になると思っていたし、この映画が凄いものであるということを信じていた
――つまり、映画「エクソシスト」は信じる力をくれた映画であったのだ。
例え演劇を志す人たちに馬鹿にされていても、
「いや、これは僕の人生の中でも、非常に大きな影響を与えてくれたものだから、恥ずかしがることは無い」と
思って言い切ったことは、今でも誇りに思っている。
僕はその後、五年かけてウィリアム・ピーター・ブラッティ氏に手紙を書いた。
当然ながら最初は門前払いも受けたが、この五年後、奇跡が起こったのだ。
「丈二、そんなにやりたいのだったら、アウトラインを見せてくれ」
ブラッティ氏からの返事にはこうあったのだ。
カトリック教の教えには「しつこく祈りなさい」とあるが、敬虔なカトリック信者でもあるブラッティ氏は、
しつこい僕に心を動かしてくれたのかもしれない。
僕の手紙はいわゆる「舞台をやらせてくれないか」という祈りだったのであろう。
「この人は僕のストーリーを聞いてくれようとしている」
そう思った僕は、初めてそこでエージェントを付けて、メールでのやり取りをすることになった。
その時に台本のシノプシスを送ったところ、
「うん、それはナイスアイデア」
ブラッティ氏はこう言ってくれた。
この時の感動を言い表せる言葉がどこにあるだろうか。
さらにこの手紙には、僕の想像を超えた素敵なメッセージがあったのだ。
「よかったらうちに来ないか」
……その瞬間、思いは国を越えようが何をしようが、通じるのだなと思った。
ブラッティ氏は、「あなたは信じる力を持ち続け、また、しつこく祈り続ければ、その夢に近づけるのだ」と教えてくれたのだ。
本当に感謝の念を禁じえない。
さらにブラッティ氏はこう言ってくれた。
「丈二、いつも夢を持っていなさい」
そう言われて思い返すと、僕は固定概念が強いのか、その年代年代で、
クラリネットを習いだした時は音楽家になりたいとか、二十を超えた時には役者になりたいとか、
それから二十五歳くらいに会社を作って、自分独自のスタイルで、舞台を作りたい
――いわゆる演出家になりたい、はたまた脚本家になりたいなどと、そのように夢を絞って来たのだが、
三十代になってブラッティ氏と出会った時に、
「それは非常にイージーミスだ」
と言われてしまった。
ブラッティ氏は「夢は一つじゃなくていいんだ」と教えてくれたのだ。
僕は役者を続けてもいられたし、クラリネットを通して音楽家にもなれたのかもしれない。
それを思うと少し後悔してしまった。
しかし、ブラッティ氏に出会ってから、夢の在り方を変えた。
今は自社の劇団で演出家も脚本家もしている。
テレビドラマも書かせてもらったし、五十間際で映画を撮るチャンスにまで巡り合えた。
夢を貪欲に持って、生きているこの瞬間を大事にしているからこそ、今の自分があるのだと、
ブラッティ氏に感謝をしている次第である。
五十代になってからの夢も当然ある。
一番縁がなかったと思った歌の世界も、映画を作ると同時に主題歌等を歌っているので、
作詞・作曲・歌までやらせて頂いている。
五十代になっている今、夢は沢山あるのだが、一番今叶えたい夢は、
今よりも、もっともっと本格的な歌の活動が出来たら、どんなに幸せなことかということである。
というのは、生きていると、当然楽しいことだけじゃなくて、辛いこともいっぱいある。
だけど、歌っているときはそういうことを全て忘れられるのだ。
恐らくは歌が織りなす世界が、僕の未来に無限に語りかけてくるからではないかと思っている。
今の夢はシンガー――歌い手である。
これもブラッティ氏に学んだことだが、人間はほとんどが想像しながら生きている。
殊に僕のような作家や監督や、はたまた俳優などになってくると、
自身の中に湧き出てくる想像で結構な時間を費やしていることと思う。
しかし、今でも明確に覚えているのは、ブラッティ氏が
「意識していると、苦悩だけがやって来て辛いよね」と言っていたことだ。
僕は彼が、常にこの「無意識になるための努力」をしなくてはいけないと言ってくれたのではないかと思った。
僕もスムーズに台本が書けるときというのは、無意識がどこかに通じた時に自然と書けるもので、
それを楽しみに暗中模索しているときは確かに苦しい。
しかし、それが無意識になって解放されたときに初めて、作品世界の鍵を貰った感じがして、
ドアを開ける楽しみや、開けた先に得体の知れないものがいっぱいあって、それを描いていく楽しさと対面できる。
それもまた、無意識のうちになっているんだなということを、ブラッティ氏は教えてくれた。
今でもブラッティ氏と会った瞬間を鮮やかに覚えている。
ジョージタウンからタクシーでワシントンDCを抜けて、メリーランド州に入るとベセスダという町がある。
そこに彼は住んでいた。
僕は通訳の女性と一緒に、白レンガ調の素敵なお家に行って玄関を開けた時に、
彼はあの青い目を輝かせ、両腕を広げて待っていてくれたのだ。
そして、彼が抱擁しながら言ってくれた言葉は、
「やっと会えたね」
という実にシンプルな言葉だった。
僕にとってはそこに至るまでの道のりが、二十年くらいあったので、
「ああ、やっとブラッティ氏に会えたんだ……」と、自然と涙が流れたことを、今でも鮮明に覚えている。
通訳で一緒に来てくれた女性は、書斎に入るや否や、「この方はどなたですか?」と聞いて来た。
僕よりも年配の彼女は、ニューヨークで画商をしているご主人の奥様だったので、
恐らくは書斎にあった絵を見て驚いていたのだろう。
題名を言えば誰でも知っているであろうその絵が、本物だったのだから……。
いわゆるセキュリティ等の問題もあって、通訳の方は基本的にどんな方と会うかは聞かないのだが、
通訳の仕事にも慣れているであろう彼女が、自然にそう聞いて来たのは、正直面白くもあった。
僕が「『エクソシスト』の原作者です」と教えると、彼女は思わず「Oh,my god……!」と呟いたという、
実に微笑ましいエピソードである。
建物は地味ながらもしっかりした重厚な作りで、暖炉があり、恐らくは物凄く高価であろう椅子が五脚ほど並んでおり、
そこで手作りのクッキーを頂いたことも非常に感激した。
ブラッティ氏は、その日のためにチョコレート職人にクッキーを作らせていたらしいのだ。
今でも彼と会って対談した思い出は、昨日のことのように覚えている。
彼との対談の内容についてはヨコザワ・プロダクションHPに
「ウィリアム・ピーター・ブラッティ?に逢いたくて」というタイトルで公開されていたが、
後日「映画『エクソシスト』舞台化の道のり」などと、
分かりやすいタイトルに変更しておくので、是非ご覧頂ければ幸いである。
収録をしていた時には、僕の中で、まだブラッティ氏が生きているように思えてならなかった。
それでいいのだと思うが、ただ、今日のラジオは「さよなら ピーター・ブラッティ」というタイトルで収録しているので、
どこかで「今はもう、いないんだ」と思わなくてはならない節目でもあるのかと思っている。
1月12日に世界発信でニュースにはなっていたものの、なかなか実感がなかったのは確かだ。
実感が無かったからこそ、どこかで「さよなら」を言いたかったのだ。
僕はこのラジオの電波に乗って、貴方に届いてくれればいいなと思って、密かに祈っている。
ブラッティ氏の存在は、10歳の頃から40年以上もの間、僕を支え続けてきた、創造の源と言っても過言ではない。
そしていつも、「道に迷ったらシンプルに戻れ」だとか、
「意識しすぎるんだったら無意識になろう」だとか、
「下を向く人生になってしまったら笑えばいい」だとか、
僕にその都度貴重なメッセージをくれて、上手く先導してくれた人でもある。
そして、「最後は意地がなくちゃダメだよ」とも言っていた。
それを聞いた時、アメリカナイズされた彼から出た「意地」という文句は不思議に響いた。
彼はかつて、それまで書いていたコメディが時代と共に書けなくなってしまったのだが、
彼はそこから「今に見ていろ」という意地を持ち続け、その意地が新聞に載っていた悪魔憑き事件を思い出させて、
筆を走らせ、「エクソシスト」を書き上げた。
そうして彼がカムバックを果たしたのは、40代のことなのである。
このラジオを聞いているリスナーの皆さんも、老若男女かかわらず、
「こういうことがしたいんだ」と思った日が、「0から1に変わる」日だから、
思い立ったが吉日で行動してみると良いのではないかと思う。
……貴方とお別れをする前に、僕はあなたの心の広さと温かさを感じて、とても幸せな気持ちで日本に帰りました。
それは、僕が「この世で一番の宝物は何ですか?」と聞いた時、貴方は微笑んで、
「これだよ」
と指差してくれました。
その先にあったのは、大好きなパパを描いた息子さんの絵でしたね。
さよなら、ピーター・ブラッティ。そしてまた、いつの日か……
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